私のピアス
私はピアスが大好きです。
今は右に3つ、左に2つ開いています。
右の3つの内ひとつは軟骨の14Gです。
ブレスレットなどは面倒くさがって殆どつけないのにピアスだけは毎日付け替えるくらい凝っています。
ことある事にピアスを開ける。
亡くなった人を悼む、決意を固める、女としての気持ち、好きだけどかなわない相手への
気持ち。
様々です。
ピアスは自分の中で身体に神を降ろすような儀式と一緒で、ピアスを開ける度に自分が開けた時に悩んでいた問題に対して強くなれているようなきがするのです。
だから私は自分の意思以外でピアスの穴を塞ぐことは絶対にできないです🔥
でも自分の想う完全形態としては最後は舌にピアスを開けるということです。
今やっている苦痛で苦痛で仕方がない仕事を辞めて舌に穴を開けるわけです。
そうすることで自分の身体に今度こそ何かとても強力なものが降りてくるような気がしているのです。
つけているピアスにも意味を持たせたくてシルバーしか付けない日もあったり青や緑系統の石しかつけていない日もあります。
ボディピアスの方が自分としては好みなのでボディピアスをつけていることが殆どですが、普通のおしゃれなピアスもごくたまにつけます。
ピアスに救われている私の耳にはあと幾つピアスが増えるのでしょうか
まだ開けたいと思っています
開けたい時に開けたいだけピアッサーでもニードルでも
ピアスは自傷であり、それ以上に自分の身体に力を降ろす儀式。
喜怒哀楽を捨てて人間を辞める
喜怒哀楽がなければ人間楽ですね
喜怒哀楽があるからこそ人間は苦しいのであって
心が掻き乱されるわけです
もう、疲れますよね
私はここのところずっと喜怒哀楽の喜楽が抜けたまま怒哀で生きています
現実に対しての悲しみと怒り
どうしてあの人には相手がいて私のそばにはいないのか、なのに仕事は毎日辛くてしんどくて
あなたもいなくて仕事も辛くてもう最悪
喜びもない、楽しみもない
来るところまできてしまったわけです
正直これからの未来もずっと真っ暗というのなら私はもう全てやめて楽になる方を選びます
喜怒哀楽を捨てて人間辞めるのは嫌なんです
私は人間であり女として最後まで生きたいんです
だから愛のために何かを犠牲にしても構わないと思っているし人生の最優先事項は愛なんです
もし私の心に想う人が仕事を辞めてこっちに来てくれと言ってきたら私は今すぐにでも辞表を出して彼の元に走ります
そういう女なんです私は
だけど好きな人にはもう相手がいるし私自身はストレスで頭がおかしくなって毎日狂った滅茶苦茶な生活の中で早く楽になりたいと思っているし。
私がへらへら「苦しくても大丈夫だよ〜」って言った時に「いいわけないだろ」って一緒にいてくれる人が欲しいんです
私は高望みしすぎですかね
でも人生捨てる覚悟なんでそういう人をどうか神様私の目の前に
毎日劣等感劣等感で生きて、きっと私は馬鹿にされてるんだろうなと冷笑して辛くて痛い生にしがみついて
私は何がしたいんでしょう
愛されたいんでしょうね
どうか私の今在る痛みが後に本当の愛を見つける礎となりますように
本当の愛に私が出会った時
生きていてよかったと泣きながら、それでも笑って言えますように
夢占い
連日、夢を見ている。
一晩中みている、という訳では無いが何度か夜中に起きて、また寝て、その度に夢が更新される。
続きを見ることは無いが共通性はある。
今日見た夢は好きな人と精神科に行く夢だった。
終始抱き寄せてもらっていた感覚がまだ私の身体に残っている。
夢占いの本を開いたら精神科の夢は酷いストレスを抱えている証だと書かれていた。
また、自分のことを支えてくれる人が現れるとも書いてある。
私は苦笑した。
私が見た夢は精神科に行こうとしていた夢であって実際に行けたわけではなかった。
終始好きな人の腕に抱かれ安心しきっていた。
でもその好きな人は現実では別の人のものだ。
精神科に行くという夢が支えてくれる人の暗示というなら精神科にたどり着けず好きな人の腕に抱かれ幸せな気持ちでいたということに何か切なさを感じた。
毎日見る夢
いつか幸せな暗示が現れてくれたら。
そして幸せになるの。
愛されたいと思うことは自惚れ
ニーチェの本を勧められた。
勧めてくれた人のことを私は人間として本当に好きなので読んだ。
私は好きな人が一番好きだという本を読むのが好きだ。
好きな人の一番好きな本を読むということはその人の人生を垣間見ることに通じる。
その人の何かを知ることに繋がる。
それは音楽よりも濃くある種の衝撃として降り掛かる。
ニーチェの本、本当に面白いですよ。
するりするりと読めます。
今、とても不思議な気分。
自分が夜の海辺に立ち、煙草を吸っている、そんなような。
流れている曲はtofubeatsの№1。
そんな心境の私が思うこと。
愛は必ずしも関係を必要としない。
愛することに関係という枠組みは最早いらない。
愛とは誰かが誰かのために何かをしたいと思ったり、誰かが誰かのために涙を流すことなのではないだろうかと最近思うようになった。
そこに恋人だの両親だのというカテゴリは必要ない。
愛する人の一番でなくとも愛をその人に与え続ける。
それこそが愛の存在の価値、なのではないだろうか。
あの日、同棲している彼女と結婚するといった私の愛する人。
海を見つめながらLUCKY_STRIKEを吸い、tofubeatsの№1を教えてくれた彼を私はこれからも愛しつづけるし、尊敬し続ける。
彼もそれを理解してくれた。
もうそれだけでいいのだ。
私は彼と一緒に吸ったLUCKY_STRIKEの感触を生涯忘れることは無いだろう。
なにかひとつを捨てることは
何か一つを捨てることはその捨てたものに対し向き合わなければならないということ。
捨てたものだって捨てられたくて捨てられたわけじゃないかもしれない。
捨てる側というのはいつも捨てられる側の気持ちがわからない。
わからなくて当然だと思う。
捨てた代わりに何かを選んだのだから。
本当に欲しいほうを選べたのだから。
残念ながら捨てられた側に選択の権利というのはないことが多く、捨てられた後は屍のように生きていくしかないのだ。
捨てられたものが立ち直るというのは生半可なことではない。
地獄のような苦しみを抱えながらそれでも生き続けなければいけないのだから。
捨てる側はしばしば捨てられた側に言うことがある。
「大丈夫、星の数ほど人はいるんだから。もっといい人がみつかるよ」
と。
言っておきますがそれは間違いです。
私が思うには、ですが星の数ほど人はいるとしてもその人はその人しかいないんですよ
そうでしょう?
どこを探してもその人はその人だけなんです。
その人はその人しかいないんだよ。
だからきっと地獄なのでしょう。
苦しいのでしょう。
それでも私達は死んだような顔を隠して今日も笑顔で生きるのです
とてもとても、悲しいことですね。
縁を切るということはとても凄いこと
縁を切るって凄いことだと思いませんか?
縁を切るんですよ。
縁を切るということはもう二度とあなたの人生とは関わりませんと言っていることと一緒。
それまで何かしらの関係を繋ぎ、共にその世界を作り上げていた人ともう一生関わらないということなんですから。
簡単に縁を切ろうとする前にもう1度考えてみてください。
本当にその人は縁を切ってもいい相手ですか?